前王朝により1143年に建てられた泥の砦は、その後クトゥブ・シャーヒー王国のイブラーヒーム・クリー・クトゥブ・シャーおよびその息子ムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーの治世62年間に要塞へと強化、拡充された。要塞は、高さは122mの孤立した花崗岩の丘の上に、今も壮麗にそびえ建っている。要塞外郭は丘に沿うように、そして要塞を囲む外壁は、いびつな菱形状に設計されている。頑丈な銃眼を持つ最外壁は、外周囲7km近くにも及び、さらに周囲に深い堀を持ち、高さが15-18mもある87の半円形稜堡(ブルジ)、8つの巨大な門を有する。
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陶器製パイプを利用した給水システムが、要塞内に存在したことが明らかになっている。このシステムにより飲料水は勿論のこと、いくつかの噴水も要塞内に作られていた。さらに、この要塞はユニークな通信システムを持っている。正面玄関のアーチの下で手を打つと、アーチの反響効果により30-40m以上離れたバーラー・ヒサールや、別の地点へその音が明瞭に伝わるのである。この通信システムは現在も機能するため、正面玄関は観光客が立ち止まり、手を打つ格好の場所となっている。また、王の謁見バルコニーには、特殊な視覚効果が施されていたと伝えられている。この仕掛けにより、別の場所にいる王の幻影を謁見バルコニー上に映し出し、万が一の刺客の攻撃から王を守ったと言われる。
ゴルコンダ要塞は、巨大な花崗岩の3重壁で取り囲まれている。最外壁は小砦を一つ持ち、小丘上を取り囲む設計である。2番目の壁は丘の麓に沿って、3番目は巨石群を取りこんで、丘の斜面に建設されている。外壁の厚さは5-10mで、巨大な花崗岩ブロック製である。北東の角には、ペトラ・ブルジ(要塞の一角から突き出ていて、その両側の長大な外壁を一望できる「大腹稜堡」)があり、有名なファテヒー・ラーフバル砲が据え付けられている。北東にある別の稜堡は、9つの丸突起がある波打った面を持っているので、「9つの丸突起の稜堡」と呼ばれている。他にも2つの稜堡が有名である。一つは要塞の南方にあるムーサー・ブルジである。この稜堡は、当時ムガル帝国王子だったアウラングゼーブ率いる1656年のムガル帝国第二次遠征軍を防ぐために、アブドゥル・クトゥブ・シャーの将軍だったムーサー・カーンによって設計され、建築家のダーマチャールによって増設されたものである。もう一つは、今日もはや存在しないカーガズィー(紙)・ブルジである。その呼び名の由来は、1687年のムガル帝国第三次遠征軍の攻城砲撃で集中的被害を受けた部分を、クトゥブ・シャーヒー王国守備軍の絵描きと職人達が、一夜で紙と布の完璧なハッタリ稜堡として作り上げたことによる。残念ながら、その一日後にゴルコンダ要塞は陥落した。これらの稜堡の記述は、テルグー語の碑文や、王達の事業記録中にも見ることができる。
今日、遺構となったゴルコンダ要塞は、乾燥した平原に朽ちた壮麗さを残している。その壮大な砦跡は、近代化し続けるハイデラバードの過去を偲ぶ背景として誇り高くそびえている。
チャール・ミナール
チャール・ミナール
ニザーミヤー・ユーナーニー病院4つの光塔をもつ大建造物は、クトゥブ・シャーヒー王国の伝説的最高傑作である。チャール・ミナールは、後のニザーム藩王国発行のハイデラバード・ルピー貨裏面にも刻印されていたし、今なおハイデラバードを象徴する最も有名な建造物である。
1591年にムハンマド・クリー・クトゥブ・シャーによって建設された。基盤の一辺は20m、4つのアーチは幅11m、高さ20mである。4階建ての光塔は、四面アーチ構造建造物の屋上から20mの高さにまでそびえている。4つ(チャール)の光塔(ミナール)があるところから、チャール・ミナールと名づけられた。屋上の西区画にはモスクがあり、クトゥブ・シャーヒー王国の職人が建てた中でも極めつきの美しさである。金曜礼拝者が宿泊するスペースの正面には、祈りのための場所が45ある。このスペース東側には、独特のアーチデザインを持つ愛らしいベランダがある。4つのアーチ門上にある時計は1889年に加えられた。チャール・ミナールの南西基部には、ラクシュミー女神を奉った小さなヒンドゥー寺院があるが、これは最近になって付け加えられたものである。
チャール・ミナール建設の意義と妥当性は、今なお終わることのない論争テーマとなっている。ある説によると、「上層階は学校だった」、「くみ上げ式の溜池だった」、「当時流行した疫病除け」、「妃への贈り物」、「ゴルコンダ要塞と秘密のトンネルで結ばれた脱出路」、「ただの門構えである」等さまざま学説や流説がある。真実がどうあれ、今日「チャール・ミナール」という単語は、ハイデラバードのかつての魅力そして美と同義語であり、螺旋階段を登る観光客に、クトゥブ・シャー家の威厳を知らしめる建造物である。夜間はライトアップされている。
チャール・ミナールのすぐ南東には、壮麗な外観を持つニザーミヤー・ユーナーニー病院がある。西へおよそ50mほど行くとラール・バーザール(Laad Bazar ???? ??????)、さらに進むとニザーム藩王国のズィラーウ・カーナー(閲兵場)入り口がある。現在、閲兵場は巨大な商業地域へと様変わりしている。
メッカ・マスジド
メッカ・マスジドインドでも最大級、ハイデラバードでは最大のモスクであり、一度に1000人もの信者を収容できる。チャール・ミナールの南西91mにある。その名前は、メッカのグランド・モスクに由来し、そのモスクの様式を踏襲している。大広間は67x54m、高さは23mである。広間の3面はそれぞれ5つアーチを持ち、この計15のアーチが天井を支えている。西側は、ムスリムで最も神聖視されているカーバ神殿への祈りの方角であるため高い壁で塞がれている。両端には、それぞれ花崗岩の一枚岩から作られた柱状の8角堂があり、その上にはドーム屋根を持つアーチ状に連なった回廊がある。
メッカ・マスジドの建設は、クトゥブ・シャーヒー王国のスルタン・ムハンマド・クトゥブ・シャーの指令により、ミール・ファイズラー・ベーグおよびチョウドリー・シャーの指揮下で始められた。8000人近くの石工と労働者が建設に携わったと伝えられる。その後も、建設事業はクトゥブ・シャーヒー王国のアブドゥル・クトゥブ・シャーおよびアブル・ハサン・ターナー・シャーによって続けられた。そして、建設開始から77年後の1694年に、ムガル帝国アウラングゼーブ帝がメッカ・マスジドを完成させた。
このモスクの北東隅にある黒色の石製ベンチ(テーブル?)に腰かけた者は、必ず再びハイデラバードに戻ってくるという伝説がある。
サーラール・ジャング博物館
目利きの骨董品収集家として世界に知られたサーラール・ジャング三世(ニザーム藩王国宰相)にちなんで名づけられた。彼は祖父、父からも幾ばくかの品を引き継いだが、博物館の展示品のほとんどは、サーラール・ジャング三世が収集したものである。彼は、スポーツや芸術を熱心に推奨した宰相で、1949年に独身のまま没した。また、単なる骨董品の収集家ではなく、詩人や作家、美術家の後援者でもあったため、彼の死後に膨大な量の値の付けられないほど高価な収集品が残された。これらが、1968年に現在の場所に移されて博物館となった。
コレクションは、43,000点の美術品、50,000点の書籍という膨大なものである。稀に、美術骨董品かどうか疑いたくなるような展示品もあるが、全展示室通じて内容的にも非常に充実している。「久月の日本人形」といった日本の工芸品も展示されている。近年(2006年)増築され、これに伴って日本の展示品は、新しく広く美しい展示室に移された。定時には、博物館一階広場に展示されているニザーム藩王朝時代の古い仕掛け時計が時を告げる。これは、この博物館の名物になっており、定時には入館者の多くが広場に集まって、その様子を楽しんでいる。
館内撮影は禁止。金曜日、祝日が休館日。
ハイデラバーディー・ビリヤーニー
マトン・ビリヤーニー州内外を問わず誰に聞いてもその名が返ってくるほどの、ハイデラバードの名物料理。特に、マトンとスパイスの炊き込みご飯とでも言うべきマトン・ビリヤーニーが良く知られ、非常に美味である。言い伝えによると、その昔ニザーム家には、糖尿病を患っていたために、大好物のマトン・ビリヤーニーを、一日にスプーン2杯だけ食することを侍従医から許されていた藩王がおり、乗せ固められる最大量のビリヤーニーをスプーンに2杯だけ懸命に盛り、とても藩王とは思えないような作法で無我夢中で食したと言われる。「ハイデラバードでは、一度は食したい味」とも言われるが、胃への負担はかなりのものである。マトンの代わりに鶏肉を使ったチキン・ビリヤーニーもある。